ダンプ松本 貧乏の日々から悪役の頂点へ

貧乏から頂点へ ダンプ松本 スポーツ 女性

こんにちは!キリシマです。

1980年にデビューして、一度は引退。その後復帰を果たし、現在もレスラーとして活躍するダンプ松本さんについて調べてみました!

ダンプ松本さんの驚くべき人生を一緒に振り返っていきましょう。

引用:テレ朝post

ダンプ松本 プロフィール

本名  松本 香
身長  164cm
体重  100kg
誕生日 1960年11月11日(62歳)
出身地 埼玉県熊谷市
デビュー 1980年8月8日

ダンプ松本 壮絶人生

父の影、母の愛 プロレスという生き様

彼女は1960年11月11日、埼玉県熊谷市で非常に貧しい家庭に生まれました。

父親は家族を顧みず、常に外で遊び、酒や博打、女に溺れていました。
家に帰ってきた時も、酔って母親に暴力をふるい、家計に一銭も入れません。
このため、幼い松本は父親を深く憎んでいました。

その感情は、ある日父親が母親を殴ろうとしてガラス窓を割り、部屋が血の海となった出来事でピークに達します。

彼女は「お母さん、このまま放っておけば死んじゃうから救急車呼ばなくていいよ」と泣いてすがり、 大好きな母を苦しめるこの男をどうにかしてやりたいと。

この悲劇的な瞬間、彼女は強くなる決意を固め、それが後にプロレスラーを志すきっかけとなりました。

彼女のキャリアと生涯は、家族の経験と深く結びついており、その背景が彼女のリングでの激しいパフォーマンスに繋がっていると言えるでしょう。

家庭内暴力が子供に与える心的、肉体的な影響は計り知れません。

彼女が過酷な環境から何とか力を引き出し、それを自身の成長やキャリアに繋げた点は非常に印象的ですね。
彼女の経歴は、多くの人々にとって勇気や希望の源になるのではないでしょうか。

14歳の衝撃 心を打ち抜かれた世界

中2の時 彼女は表現しようのない衝撃に襲われます。

全日本女子プロレス中継で当時人気を誇っていたマッハ文朱が試合に負けた後のリングで泣きながら歌っていたのです。

その煌びやかな世界と儚いばかりの美しさが14歳の彼女の心を打ち抜きました。

熱狂と執念 情熱的なプロレス観戦そして執念のアピール

夢を追うのは容易なことではない、とよく言われます。
彼女にとって、その夢は女子プロレスラーになること

彼女は地元で行われる女子プロレスの試合に足繁く通い、土曜夕方に放送されるテレビ番組も見逃しませんでした。

中学3年生になると「これから何をするのか」を真剣に考える時期が来ます。
彼女は、担任の先生に対しても堂々と「女子プロレスラーになりたい」と宣言。しかし、問い合わせたプロレス団体からは、「もう締め切りました」とあっさりと断られてしまいます。

しかし、彼女は諦めませんでした。カセットテープに自分の夢と情熱を語り録音し、何度も何度もプロレス団体の松永会長に送ったのです。

「こんにちは、埼玉県熊谷市の松本香です。なぜ私がプロレスラーになりたいか、それをお話しします」と。
結局、プロの道は閉ざされたものの、その情熱は消えることはありませんでした。

高校に進学した彼女は、ビューティーペアという新しいスターに心を奪われます。

同級生5人と「ビューティーペア親衛隊」を結成し、全員お揃いのオーバーオールと母に縫ってもらった法被で試合を応援。

そんな彼女たちは、あまりにも頻繁に会場を訪れるので、松永会長にさえ「また来たのか」と呆れられました。

そんな中でのエピソード。
電車通学で知り合った男子から告白されたこともあったダンプさん。しかし彼女は、
「ごめん、私はジャッキーさんが好きなんだ」と、彼を断ってしまいました。

女子プロレスへの夢は叶わなかったけれど、その情熱と忠誠心は誰にも負けない松本香さんなのでした。

修羅の門 デビューへの過酷な道のり

1979年4月1日、彼女はついにオーディションに合格します。
就職を1週間後に控えたギリギリで夢だった全日本女子プロレス入門を果たします。

しかし、デビューまでの道は過酷を極め、およそ1年半も要することに。

練習生として耐える日々が始まりましたが、入門した年の暮れ営業部に回されてしまいます。

普通免許を持っていたので宣伝カー要員にされてしまったのです。宣伝カーで全国を回りながら練習を続けました。営業で一生を終えるつもりはなかったのです。

そして入門から1年後の4月、彼女はようやく4度目でプロテストに合格。
1980年8月8日の田園コロシアム大会でようやくデビュー!

それでもダンプ松本誕生まではまだ4年の期間を要することになるのでした。

陰湿ないじめ 耐え抜いた日々

デビューからおよそ2年間、落ちこぼれだった彼女は、先輩からいじめの標的にされてしまいます。
人生ゲームで使うおもちゃのお金を持たされて、ガソリンスタンドで饅頭買ってこいと言われる。
置き去りにされ、必死で走ってバスを追いかける。
トイレで泣いていたら「トイレで泣くな!」
外で泣けば「みっともないから外で泣くな!」
バスで泣けば「うるさいからバスで泣くな!」・・・・・理不尽極まりない・・・。
当時の巡業の宿泊先は旅館が主で、彼女は玄関先に飾ってある亀の甲羅を背負わされ、
「お前はノロマだから亀だ」と外を這わされたこともありました。先輩は笑いながらパンをちぎって、投げ捨てる。彼女は黙って口だけで地面に落ちたパンを食べるしかありませんでした。辛かったが情けなくて涙も出なかったそうです。しかし、今に見てろ必ずお前らに仕返ししてやる!という思いだけで耐えていました。練習でもパンチやキックを怖がる彼女は、ロープで両手首を縛られた状態で先輩に顔面をボコボコにされました。彼女の居場所はどこにもなくなっていました。

地獄のような日々を過ごしていた彼女に、救いの手を伸ばしてくれたのは悪役レスラーマミ熊野。
深夜のバス車内で、彼女は毎日毎日皆が寝静まった頃、息を殺して泣いていたところ、席が前だったマミ熊野さんが小さな声で彼女を励ましてくれたのです。

「やめちゃダメだよ。3年頑張ればもういじめる人間も飽きてくる。
後輩だって入ってくる。自分を捨てることはいつでもできる。
でもプロレスを捨てちゃダメだよ。」

彼女は泣きながら頷くしかありませんでした。

ベビーフェイスほど裏表がある。
悪役はリング上で憎まれる分、他人の心の痛みがわかるのだろうと彼女はこの時、ヒールになるしかないと決意したのでした。

革命の火花 悪役への転生

1982年冬、デビル雅美率いる悪役軍団 デビル軍団の一員となった彼女は、ようやくヒールへの道を歩き出すことになりましたが、完全に悪役になりきれず葛藤していました。

そんな時、クラッシュギャルズに対抗できる強力な悪役チーム、徹底してファンから憎悪されるヒールが必要となり、松本香と同期のクレーン・ユウに白羽の矢が立つ。

二人は一大決心をし、最後のチャンスとして新たな悪役チーム、名付けて「極悪同盟」を結成することになったのでした。

彼女はさらなる注目を集めるために自らの名前を「ダンプ松本」に変え、そのイメージも一新。
金色に染め上げた髪と、インパクト大なフェイスペイントは観客の目をくぎ付けにしました。

その目標は明確で、全日本から最も嫌われるヒール(悪役)になること。

「極悪同盟」はすぐに話題となり、観客からは興奮と非難の入り混じった反応が寄せられ始めます。

彼女は、この道を選んで母親や妹に迷惑をかける可能性を承知の上で、それでも全力で悪役を演じきる決意を固めていました。

その結果、試合の興行収益は飛躍的に上昇。彼女自身も人気は爆発的に増加しましたが、その代償として観客からの嫌がらせも増えていったのです。

極悪同盟

newsポストセブン

闘魂VS友情 リング外での命懸けの戦い

ダンプ松本(極悪同盟)とクラッシュギャルズの壮絶な対立抗争は、ただのリング内でのエンターテイメントを超え、時には選手やファンの身の危険まで招いたと言われています。

抗争が続くにつれて、ダンプの家に空き巣が入る新しい車が傷つけられるストーキングされ命を狙われるといった事件まで起きてしまいます。

これらは、抗争が熱を帯びるにつれて、選手とファンの間の緊張が増していった典型例です。

さらに試合が続くにつれて、その内容はより過激になっていきます。

例として、ダンプが長与を丸坊主にした「髪切りマッチ」が挙げられます。

これにより、試合後には何百人ものファンがダンプらのバスを取り囲むという緊迫した状況が生まれてしまいました。

その頃舞台裏では、松永会長が両陣営に対して陰口や悪口を吹き込んで、緊張をさらに高めていたと言われています。

このような裏事情があることで、ダンプ松本とクラッシュギャルズの間の抗争はさらに複雑なものとなっていったのですね。

当時は携帯電話もなく、控え室も宿も別でしたから、選手たちはリング上でしか直接コミュニケーションを取ることができませんでした。
この限られたコミュニケーションが、誤解や緊張を高めていったのかもしれませんね。

ダンプ松本とクラッシュギャルズの抗争は、単なるエンターテイメントを超えた社会現象になっていました。

その背後には、選手自身のリスクと心労、そしてファンとの複雑な関係がありました。

これはプロレスが持つ、人々を魅了するがゆえに時に危険な緊張感をもつことの象徴でもあるのかもしれませんね。

極悪生活 五箇条の約束と豪華な日々

極悪同盟は外部から見ると極めて一体的なチームであり、その秘密は「五箇条の約束」にありました。

「仲間の悪口は言わない!」 「陰口は言わない!」 「ナイショ話はしない!」
「告げ口はしない!」 「待たせる人間より待つ人間に!」

メンバー間で厳格に守られるルールがチームワークを高めていました。
いじめを経験して落ちこぼれていた人間の集まりだから、チームワークは良かったのですね。

熱狂的なブームと共に、ダンプにも前代未聞の大金が流れ始めます。
月給が手取りで580万円、年収は5000万円を超えていました。

1986年は、女子プロレスの歴史において特に注目された年で、特にブル中野の加入によって極悪同盟は力を増し、最大で10人もの選手が所属していました。

そうなると若い子たちの食事代も面倒を見なければなりません。
毎日焼肉屋に行ってはニューハーフパブに行ったり一晩で30万円とか平気で使っていました。

その一方で他の選手からは嫉妬の目が向けられていました。

テレビ出演が増えるにつれ、ダンプ松本とブル中野に対する嫉妬はエスカレート。
何人かの先輩選手は彼女らをクビにするよう求めました。

この状況で、松永会長が二人を庇い「俺はダンプを取る。やめるならお前らがやめろ」と。

ダンプには「お前は好きなように反則を続けていい俺が守る」と言ってくれたようです。

このような松永会長の保護により、極悪同盟はさらにその影響力を増していったのです。

終幕と新生 涙の引退

1985年、全日本女子プロレスは一世を風靡していました。

毎月8回もの全女番組がテレビで放送され、視聴率は20%以上まで跳ね上がっていました。

それだけでなく、グッズの売上も凄まじく、簡単な計算で年間30億円以上という数字にもなりました。

しかし、その成功の陰には、選手たちが得るべき報酬や待遇がほとんど還元されていなかったという問題があったのです。

当時の経営陣である松永一家は、豪勢な生活を楽しんでいましたが、選手たちのギャラや設備の改善にはほとんど投資されていませんでした。

特にダンプは、松永会長以外の会社の人間が嫌で嫌で仕方がなくなっていきます。

ダンプはこのような状況に耐えかね、1987年の夏から引退を考え始めます。
そして1988年、ダンプ松本は引退を発表。

1988年2月28日地元の熊谷市体育館でラストマッチ後、ダンプはリング上から引退の挨拶を行いました。

「今まで ちいちゃんやトモちゃんのことをいじめてすいませんでした」と、クラッシュのファンに泣きながら最初で最後の謝罪をし、足掛け5年にも及ぶ遺恨を水に流し、そして最愛の母への感謝の言葉を口にしたのである。

ダンプ松本 その後の影響

プロレス引退後は芸能界に転身しましたが、2003年横浜アリーナにおける全日本女子プロレス35周年記念興業で、現役15年ものブランクを経て驚きの現役復帰を果たしました。

試合内容自体は「往年のそれとは似て非なるもの」 確かに、年齢とともに体力やスピードは減退します。
それでも、ダンプ松本がリングに上がると、観客は一瞬で熱狂の渦に包まれます。

何故でしょうか?それは彼女のスター性と存在感が今も色褪せていないからです。

プロレスの世界は常に新旧が交錯する舞台です。

新世代がレジェンドに学び、レジェンドが新世代に刺激を受ける。

このサイクルがプロレスをこれからも面白く、そして永遠のエンターテイメントとして続けていくのでしょう。

そのスター性と圧倒的な存在感を、今の若い選手たちが超えていくことは決して容易い事ではないはずです。

そしてダンプは、62歳になった今なおリングに上がり続けている。

 

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